村上春樹は青少年文学である

心から一歩も出ない村上春樹は、この世にはない。
こうであった村上春樹の過去が、
暗い鏡に映すものは、こうでなかった村上春樹の現在の姿だ。

*。
村上春樹はクローズド・ループである。
即ち、外部と繋がっていない。

即ち、オウム真理教をは繋がっておらず、ただ見ているだけだ。

*。
村上春樹は、オープン・サーキットである。
即ち、外部を負荷していない。

即ち、自家発電機や自己満足機械である。

         *。
批判という方法は、外部の中に入って、それを観測する方法だ。

日本には批判という方法がない。
外から見るか、中に入ってみるか。
観測が出来ない。

これが一人称衝動であろう。
だから月を見なければない。

*。
世界を知性化して、すると外部のものを測定できるようになる。

だから日本では、外部からガタガタ言うか、内部に入り一心同体になる。

世界を客観的に見れない。
即ち、本質がない。

*。
アメリカと日本文学は、この客観性に欠ける。
相手と一心同体になってしまう。

そこがヨーロッパ文学との違いだ。

    *。
日本やアメリカは、思考回路が未成熟だ。

だからアメリカと日本文学は、児童文学となる。

*。
村上春樹がヨーロッパでも人気なのは、児童文学的様相が必要だからだろう。

だがこれは、心のない世界だ。
だから永遠平和が幻想や妄想となる。
これがアメリカ映画や文学であろう。
娯楽性に富む。
即ち、大人の児童文学だ。

そこの村上春樹現象が位置する。

*。
今世界的に児童文学がはやっている。

それは幼稚化だけでなく、感情の広まりだろう。

     *。
そう見ると村上現象は、青少年期文学であろう。

ヨーロッパは大人の文学をし、
アメリカと日本は、児童や青少年文学としている言えばいいのではないか。

村上現象は、日本発の青少年文学だ。

やわらかいエリート予備軍の、
自己不全感や永遠の少年現象のスウィーパーと思えばよい。

これらを掃除しているので、
大人の文学と考えるといろいろ言われる。

      *。
はじめの文も、そう考え、支離滅裂を言うこともない。

だがそれは指摘しておかなくてはならない。

このままいくと、死の儀式になるのだから。

*。
アメリカはまだ少年だ。
それにしては軍事や経済で態度がでかすぎる。

イラクにやれれる道理だ。

*。
世界はいろいろだ。

大人もいれば、子供もいる。

皆同じとすること問題だ。
精神病の国もある!

*。
これが多様性の問題で、生態論理が必要になった。

仏教 秀吉 村上春樹

三者の日本連立方程式を立てた。
共通点は何だろう。

    *。
仏教は現代では葬式仏教といわれる。
死後にも階級があり、それは払った金で決まる。

誰もおかしいと思いながら、異議申し立てはしない。
おかしいと思いながら、それがいえない。

どういうことなんだ。
日本人の人格が収奪されている。

個人で考えることが禁止されている。

     *。
豊臣秀吉は、草履伝説で、親分のすべてを収奪した。
親分を手なずけ、子分にした。

そして親分を殺し、すべてを奪い、女まで奪った。
高能率極まりない。

*。
では村上春樹はどうだろう。

完璧な文章は存在しない、完璧な絶望が存在しないように。

この文章に何の関係があるのだろう。
だが自分で考えない人には、これは悟りだ。

そして村上文学は展開をしている。

*。
文章を書くことは自己療養の手段であって、自己療養へのささやかな試みだ。

人とはっとさせる、
即ち、人の人格を略奪している。

人を折伏して、それに従わせる。
それを有難いという人もいる。
自分で考えない人だ。

     *。
自分で考える。
これは一見大変なことだ。

対象を考え過ぎず、距離をとって考える。
この方が楽だ。

この時、自己は放棄された。

*。
日本人は、徹底的に考えない。
そこに優しい暖かい自己ができる。

徹底的に考えると、距離は取れない。
そういう考えをガチガチと考える。

*。
日本人はふわふわと考える。

それは楽だが、自己は放棄された。

*。
そこに秀吉が侵入し、彼の奴隷になる日本人だ。

    *。
この方法こそ、心無き永遠の平和だ。

心があれば、いろいろの問題と戦わなくてはならない。

*。
お上の言いなりになった方が楽だ。

それが人情世間体だろう。
即ち、自己は放棄されている。

それを我を張らないと取る。
西欧は我を張っている。
和を重んじないと取る。

   *。
こう考えると、村上春樹は、人を雁字搦めにして、支配しているといえる。

春樹批判派は、あざとい方法だといい、
誰でも考えるようなことを先に言って、
人をワン・パターン化し、
恐怖支配をし、人間性の脅威だとなる。

*。
即ち、人を無理やり支配し、有無を言わせない。

このような支配を撥ね付けるには、相当の自己がないと出来ない。
自分で考える力のない人を、餌食にする。

即ち、村上春樹は、悪魔のお菓子だとなる。

*。
このお菓子で人を釣り、
村上屋敷の奴隷や家畜とする。

そこには思考の自由はない。

思考自体を奴隷化している。

   *。
人間には自由があり、徹底的に問い詰める数%も必要だ。

こういう人を非常識として、排除してしまう。

*。
ここに村上春樹の常識は、人類の非常識となる。

即ち、排除の思考である。

国家原理主義である。

*。
ここに立つから、オウム真理教は正しいといえない。

かくして国家原理主義のおいしい餌となる。

*。
現代は、国家原理主義の先の生態系に進化している。

ここから見ると、遅れた考えとなる。

    *。
日本連立方程式、解は自分で考えない。

雰囲気に合わせる。

*。
これは国家の奴隷か家畜か。

少なくも国家の言いなりになる。

*。
勿論ふわふわした人もいていい。
ガチガチの人もいてもいい。

それぞれに仕事があり、それは排除してはいけない。

*。
排除の日本には、弱者は餓死させられ、無実死刑が横行する。

*。
これは日本の法に合わせても違法だ。
だが異議申し立ては出来ない!

即ち、思考が禁止されている。

      *。
栃木県警事件、
マスコミは虚偽犯人事件は例外的事件だという。

だがこういう事件に遭遇した人は、いう。
警察は捕まえた人を犯人するのが常識だ。

マスコミは国家の宣伝機関であることが分かる。

日本に国民の味方はいない!

*。
国民は国家から自立しない限り、国家の餌食だ

その餌食化の一つに、村上文学がある。

だから彼はオウム真理教が正しいといえない。

これを正しいといわない限り、生態系への移行はない!

     *。
村上文学は、思考を禁止や停止する方法であった。

距離を取り、考え過ぎない。
それでは困る場合もある。

村上的ゆるさ、それは思考の放棄だ。

*。
村上文学は思考を放棄した人の世界だ。

そういう人もいてもいい。
だが溢れれば困る。

*。
心のない永遠の平和は、妄想だ。

村上はどっちを取ったのだろう。
心を取れば、オウム真理教は正しいと言わねばならない。

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